プロフィール

はじめまして。当ブログを運営しているハロー介護職です。

普段はTikTokとX(旧Twitter)を中心に「利用者の思いを大事にすることのセンターピン」をテーマに情報発信や問題提起を行う活動を行っています。その活動の一環として当ブログの運営も行っている次第です。この一連の活動を行うに至った経緯を僕の経歴も含めてご紹介できればと思います。宜しくお願いします。

ハロー介護職が介護の仕事に就くまで

僕は1985年に京都で生を受けて2歳の頃に三重県四日市市へ父親の仕事の都合で引っ越してきました。それからは小・中・高と公立校を経て名城大学法学部法学科を2008年に卒業。卒業後は大手パチンコホールの正社員として入社。この時は「大学まで行かせてパチンコ屋に勤めるなんて何たることか!」と父親には随分と反感を買いました。

パチンコホールで勤めてみたものの将来に不安を覚える…

何故パチンコホールに入社したかというと、当時パチンコにハマっていたからという何とも安直な理由…。それほど当時の自分は思慮の浅い人間だったのです。そして5年ほどパチンコホールで現場スタッフとして勤めた頃、漠然と「このまま勤めていてもパチンコ屋でしか働らくスキルは身につかない。体力の消耗の激しいこの仕事をいつまでも続けることは厳しい…。このまま40・50代になった時自分はどうなってしまうのだろうか?」と不安になりました。

心機一転リフォームの営業へ転職

そこで、当時興味のあったリフォームの世界へ足を踏み入れることに。営業職として採用してくれる会社があったため入社するが…。興味があると言っても、当時人気のテレビ番組の「劇的ビフォアーアフター」に影響されただけであって、勉強をしていたわけではないので、専門的知識はありませんでした。また、教育係兼上司となった方のパワハラ・モラハラが酷く精神的に続けることが難しく程なく逃げるように退職します。

ハロー介護職ライン工になる

しかし、具体的に次の行動プランも考えずに退職してしまったため無職となってしまい、生活を繋ぐため工場でシステムキッチンを組み上げるライン工の派遣の仕事を始めます。ただ、このライン工の仕事も僕には向いていなかった…。業務の性質上丸一日誰とも会話をする機会がなく、黙々と機械のようにチャイムが鳴ったら始業・チャイムが鳴ったら休憩時間・チャイムが鳴ったらお昼休み・チャイムが鳴ったら終業…そして誰とも話すことなく一日を終えるのです。もともと人と関わることが得意な方ではありませんが、さすがに精神的につらかったです。

介護の仕事を始めたきっかけは「手に職をつけたいから」

そういった環境の中で自然と未来のことを考えることには30歳目前。そしてふと手に職が何も身についていないことに気が付きました。さすがにこれはマズいと自分の人生を考え直すことに。そんな時母親が介護の仕事をしていたことと、少し調べてみたら介護施設は無資格でも雇ってくれるところがあることを知り、「働きながら手に職をつけるならこれしかない!」となり、高齢者のお世話をしたいとかそういった思いは全くないままに介護業界に参入することとなりました。ですので、決してピュアな気持ちで介護の仕事を始めたわけではありません。

ハロー介護職介護業界へ参入する

コミュ障気味で、ましてや普段高齢者とお話する機会のなかった自分は、最初利用者さんとお話することすらままならなかったです。しかし、決して嫌ではなくて段々と「利用者さんが利用者さんらしく生きるには」ということを楽しく考えるようになり、介護の仕事にのめりこむようになります。

最初の職場はユニット型特養

最初の職場との出会いのきっかけは介護職員初任者研修でした。介護のことを何も知らない僕はどうしたら介護の仕事を始められるかをネットで調べているうちに、最初の職場が介護職員初任者研修を開講していることを知りました。(母親に介護業界のアドバイスをもらわないあたりに若いころのつまらないプライドが滲み出ています。笑)。さっそく受講の申し込みの電話をすると、受講と同時並行で入職しないか?との打診があり、飛びつくように入職しました。当時は「無資格でも雇ってくれるなんて、なんて優しい職場なんだろう」と思っていましたが、実は単に人手不足だっただけでした。笑

そして肝心の介護職員初任者研修は開校に必要な最低人数が集まらずに、開校に至らず。そのまま無資格で働き始めることとなりました。

ユニットリーダーを経験する

無資格で基本的な介護の知識がなくても、当時の僕はあまり気にしていませんでした。何せ働けるだけでも嬉しかったので。そして、手に職をつけるんだとやる気も満々だったので、のめり込むように先輩に教えを請い、自己学習も積極的に行いました。そして入職して一年を過ぎるころ、ユニットリーダーをしてみないか?と打診があり、やる気満々だった当時の自分は二つ返事で引き受けたのでした。

ハロー介護職|ユニットリーダーで奮闘する

ただ、それまで他の職でリーダーとしての経験を十分に積んでいたわけではなく、ましてや介護経年は1年そこそこ。壁にぶつからないわけがなく、毎日6~8時間のサービス残業は当たり前。休日出勤も頻繁に。しっかりと壁にぶつかりました。今にしてみればもっと周囲に助けを求めても良かったのだと思うのすが、他の職員も他ユニットのリーダーも忙しそうにしているのを見るととても声をかけられませんでした。

介護のイロハと同時にリーダーとしての研鑽も同時に行う必要があったので、決して楽ではありませんでした。しかし、大変だった分得られた経験値も大きかったです。

ハロー介護職|サ高住へ転職する

最初の職場で5年が過ぎるころ。施設の経営の体制も徐々に変わってきて、着いていけなくなった良い職員さんが次々を退職。中には僕の尊敬する優しくも経験豊かな頼れる職員さんも退職していきました。そして人手不足に拍車がかかり、現場は忙しさから利用者さんを人とも思わない対応が横行するようになっていきます。このころから施設の行く先に不安を覚えた僕は転職を意識し始めます。そんな時にタイミングよく知り合いの介護職から誘いを受けてサ高住へ転職することとなりました。

ハロー介護職にとってサ高住は魅力的

サ高住の何たるかを何も知らない自分にとって、サ高住はとても刺激的でした。同じ箱の中で生活することは特養もサ高住も同じなのに、特養よりも自分の家感をサ高住からは強く感じたのが印象的です。そう感じた要因は介護保険の使い方による部分が大きいかと思います。居宅系に分類されるということで、介護・看護・医療・リハビリ・デイサービス・福祉用具など自分がしたい生活に向けて、介護保険の使い方をカスタマイズできる点から自由度の高さを感じ、より家感を強く感じたんだと思います。ユニットの特養も「終の住処」「個別ケア」を謳うものの、どこまでいっても施設な感じが僕の中ではぬぐえず、その点サ高住は僕にとっては魅力的でした。

ハロー介護職|サ責就任

サ高住で働きだして2年を過ぎる頃、会社からサ責をやってみないかと打診があり、サ高住での訪問介護のことをよくわかっていない僕は不安と迷いがありつつも、当時の上司の厳しくも優しいところを信じて引き受けることにしました。サ責を始めてみると、今まで知らなかった介護保険の制度のことに触れ、ケアマネさんとの接点も増え、今まで以上に仕事の幅が広がったことでより介護の仕事に楽しみを見出すことができました。もちろん言うまでもなく大変ではありましたが…。

施設長就任の打診

サ高住で勤めだして3年目。会社で新しい施設を立ち上げる話が出てきました。その時実は僕は片道1時間くらいかけて当時の職場へ通っていたのですが、新しい施設の場所は車で約3分の場所。奇跡的な近さであることもあり、立ち上げと同時に異動の話が舞い込んできました。そして、「新しい施設で施設長をやってみないか?」と打診を受けるのです。この話は非常に悩みました。ここまでのキャリアを聞くと、介護を始めて1年そこそこでユニットリーダー、サ高住へ転職後も間もなくサ責へ就任ということを踏まえると、読者の方には僕がそれなりに優秀な人材のように感じるかもしれません。しかし、ここは明確に否定しますが、決して優秀でもなんでもなく評価されていた理由は恐らく、僕のやる気と真面目さと責任感だと思います。ここだけは他の人よりも突出していたと自覚しています。しかし、この長所が後々自分の首を絞めることになってきます…。

施設長就任1回目

新しい施設の立ち上げの話が出たものの、完成時期は未定でした。そして、当時の職場の施設長がエリアマネージャーへ昇進となり、施設長の席が空くことに。次に誰が施設長になるかとなった時に、僕に話がやってきました。

会社の描くシナリオは、一旦既存の施設で施設長を経験し、その上で新しい施設立ち上げと同時に異動・施設長を務める。こういったものでした。

自分としても経験を積む機会としては悪くないと思い引き受けました。

ハロー介護職のメンタル崩壊

※続きは執筆中…

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